on your body
2008年 11月 04日
東京都写真美術館にて
志賀理江子さんは強烈ですね。
死に向かうことは生きること。生きることは食べたり、眠ったり、セックスしたり。ということは、それらのことは、死に向かうことであるから。日常と死はきってもきれない。生きてることが素晴らしいのならば、死に向かうこともすばらしい。志賀さんのは、死んでいながら光を放ち生きた時間が停止された、封印された写真の世界。生け贄が光を放ち燃やされているその瞬間を留めた。怖いけど綺麗な世界感というのはやはり、死ぬことと生きることの関係に似ている。
横溝静さんはヴェネチア・ビエンナーレ(2003)で好評を博したに映像作品「Forever (and again)」が展示されています。老婆が弾いているショパンのワルツの映像にも、失われるものと永続的なものが入り混じるものだった。
朝海陽子さんの写真は、映画を見ている人を撮ったもの。みんな体はすごくゆったりくつろいでいるのに、目だけはばっちし見開いていて、思わずプッと笑ってしまった。
展示の最後が朝海さんで良かった。
Time on your body な展示でした。
私という死に向かう、時間はそのものに対し、止まった時を作る行為は祈りに似て、自己と対立する存在への強い欲望、執着にイメージは成り立つ。よく侍が「写真に撮られると命が獲られる」とはいうけど、それに近いのかな。永続性のあるものは死んだもの。永遠に残るということは生きていないこと。志賀さんの写真に出てくる人はどれもゾンビに見える。ゾンビが光を放って輝いている。永遠の命は恐怖感と一体をなし、しれでいながら人を魅了させる。マリオ・ジャコメッリの永続性と恐怖感と魅力を連想させる。
死に向かうことは生きること。生きることは食べたり、眠ったり、セックスしたり。ということは、それらのことは、死に向かうことであるから。日常と死はきってもきれない。生きてることが素晴らしいのならば、死に向かうこともすばらしい。志賀さんのは、死んでいながら光を放ち生きた時間が停止された、封印された写真の世界。生け贄が光を放ち燃やされているその瞬間を留めた。怖いけど綺麗な世界感というのはやはり、死ぬことと生きることの関係に似ている。
横溝静さんはヴェネチア・ビエンナーレ(2003)で好評を博したに映像作品「Forever (and again)」が展示されています。老婆が弾いているショパンのワルツの映像にも、失われるものと永続的なものが入り混じるものだった。
音楽は、移りゆく「時間」というものに、一時的な触知できる質感を与える、この瞬間にも通り過ぎて行き、そして私達の有刑の身体にとっては、「失われて行く」という表現が適切に思える「時間」は、音楽によって私達の中で形ある経験に昇華される。失われて行く時間の中で経験される永続的なショパン。過ぎ去る永続性の中でプカプカと浮いてしまいそうになる。なんだかとても恐い気持ちになれてしまう。
朝海陽子さんの写真は、映画を見ている人を撮ったもの。みんな体はすごくゆったりくつろいでいるのに、目だけはばっちし見開いていて、思わずプッと笑ってしまった。
そこには「映画の時間」に平行して流れる見る者一人一人の「日常の時間」といういくつもの物語が織り込まれている。時間を共有する為に自己の時間を停止させている人たち。停止しているんだけど、みんなそれぞれのスタイルを持っててちょっとホッとさせるし、おもしろい。
展示の最後が朝海さんで良かった。
Time on your body な展示でした。
by tokup_nao
| 2008-11-04 00:50
| 美術
|
Trackback
|
Comments(2)