坂本一成 日常の詩学

日常の詩学の講演会に紛れてきました
八束はじめ、坂牛卓を交えて長時間の対談
最高におもしろかった
伊藤さんの中野本町の家の頃、その当時は住宅は「閉じた箱」が時代の先端だった。都市を反転させた原低にしろ、安藤さんは住吉の長屋で「都市の砦」といい。そこに坂本さんも閉じた箱という言葉を使っていたんだけど、実は半信半疑だったらしい。水無瀬の町屋では閉じた箱といいつつ大きな開校があるんだよと自分でぶっちゃげてて。しかし、コンクリートに銀ペンキをし、中に入ったとたん均一な真っ白空間。素材の表現では外部に閉じてる感じはするけど、確かに開口部でかい・・・。
そんな感じで一つ一つ作品の種明かしや本音を口走りながらほとんどの住宅を説明してくれました。
その中で一貫してたのが、「日常を越えた非日常」という考え方。日常と連続しながらも、非日常につながっている建築。日常と非日常のせめぎ合い。矛盾をはらんだ願望なんだけど、それをずっと変わらずやり続けている。その変わらずやり続けていることに、自分の変わらなさに落胆しているような、変わらない自分にホッとしているような心地だそうですw
中でも意外だったのが「いつも直感でつくっている」とい言葉だった。意外に感じたってことはやっぱ坂本さんを全く理解していない自分だなと思った。坂本さんは伊東さんが評するにモダニズムってあんま問題じゃない 身体感覚でつくるような。八束さんが学生の頃に、磯崎か篠原かみたいな好みの違いがあって、やっぱ坂本さんは篠原の弟子なんだ!とこのとき肌で感じました。伊東さんは初期は時代の流れを意識してつくってたけど、もう今は身体感覚かもねと八束さんは言う。観念としての建築と身体としての建築がこれ程色濃く出るもんなんだな。日常の詩学というのも日常の身体の延長を意味しているし、生活が基本にある。八束さんが言うように、ウィーン学団が観念として世界を捉えようとしたときに、その派閥としてオットー・ノイラートやヨーゼフランクがいたのと同じなんです。相対化できるかできないか。音楽でいうと相対化できないのがノイズのような実験音楽という。(坂牛卓)
坂本さんの作品に八束はじめと坂牛卓の知のスパイスが振りかかり、なぞの人物坂本一成の凄みがめきめきと浮き彫りになっていくような感覚に陥った。
この講演会を聞いて後しばらく興奮が冷め止まなかった。
家に帰ってまず講演会で話に出てきた本をAmazonでチェックしまくり、お金がないのでとりあえずほしいものリストにぶち込みまくりましたw
無性に勉強がしたくなるのはこういうのを聞いちゃった後なんですよねw
このモチベーションが続いてくれればいいのにぃ・・・w







坂本さんのこと全然知らなかったけど、良かった。
by tokup_nao
| 2008-10-17 01:26
| 建築
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