鬼石多目的ホール

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設計:SANAA

前衛なき時代と言われているけど、私にとってSANAAは前衛ではないかと疑っている。
機能主義でも合理主義でも装飾でもないし、もちろん米・ヨーロッパのデコンの方々とも全く違う。なので、今までの時代に沿って、~~主義と名を付けたいところだが、当の本人から何か明確な主義・主張を発している訳でもないのでそうすんなりと『~~派』のように腰を据えてはくれない。
なので、あの空間に出会ったら、とりあえずみんなSANAAっぽいという。しかしいつまでもそんな表現では、私たちは一向にSANAAっぱさを捉えきれないままでいるようで、腑に落ちない。だからその『SANAAっぽさ』の確信にもうちょっと迫ってみたいと考えた。

そもそも、SANAAの建築の創り方は、大量の模型を創ることで知られている。それは刻々と状態変化する幼虫がサナギに変態しようとしている一瞬を捉えるような。または、未完成の美しい動的状態を補完しうる隙間を狙っているかのようだ。石上純也のKAITO工房の「曖昧な状態を創りたかった。」という発言にも同じものだろう。曖昧さは揺ぎ無い完成を意識させない状態を目指している。その不確定の美学が両者の間には共通意識としてあった。加えて、藤村龍至のアルゴリズム模型も同じであり、乾久美子のHIBIYA KADANで感じたたまたま箱になっている感覚とも共通する。藤本壮介やド・ムーロンでさえも最近の作品には、偶然落ち着いた形が選ばれているようだ。

実は誰も気づかないうちに、現在の建築界では、水面下で『不確定の美学』が大横行している。

では、なぜここまで『不確定の美学』が建築界で突っ走ってしまっているのか。
そこで私は大ざっぱに言うと、SANAAにとっての最終目標は、『空間を時間化』してしまおうとしているではないかと思う。時間の中に空間を溶解させようとしているのだ。
時間は刻々と変化していき、決まった速度で進み続ける。しかし、感情をもつ人間が、一度そこに足を踏み入れると、時間が早く感じたり、遅く感じたり。科学的には確かな速度で進むものだけど、人間が介入すると、たちまち変数化してしまう。それが時間だ。
その点、空間の歴史は、古代ギリシャを始めとする建築物から、今まで確固たる確かな存在を裏付けようとした歴史でもある。そこには、時間とは逆に確かなものへの憧れと熱望があった。確かなものこそ、権力の象徴であり、非自然的な、人工物の象徴であった。それが、SANAAが現れるまでの建築に対する私たちの空間概念であった。

しかし、今の時代を象徴するのは、不確かなものへの肉体化と言えるのではないか。権力者が見えない。不特定多数のテロリスト。googleやtwitterのようなweb上における、高速度で蠢く自由な媒体。生物・物理化学でも言われて続けている動的平衡に、ノイジーな変数が混じってドライブが掛かったかのような感じとでも言えばいいのか。

そんな時代を象徴するように、SANAAの空間も時間とおなじように、刻々と変わっていくような変数として扱おうとしている。不確かなものへの永続性を補完することで、そこでの空間が時間のような移ろい続ける響きを放つことを期待している。
少なくとも、私にとっては『不確定の美学』を持つ建築を訪れると、その建築が時代意識と共に、それまで感じたことのない美に接近することに、新鮮な驚きと感動を覚える。だけどまだ欲を言えば、物質的にみて、まだまだ今世紀の技術ではSANAAは完成しそうにないと思っている。だからこそ私は、そこに前衛の輝きを感じてやまない。その前衛の疑いが、最近では確信に変わろうとしている。


そんなこんなで、鬼石多目的ホールに行ってきました。前段が長かった。(笑)
鬼石こそ、たまたま選びとられたかのような形をしている。抽象的でありながら、かなり造形的な建物だと思う。その造形性に抽象化されることで手垢を残さないからいやらしさを感じさせない。この造形は自然に近い造形と言える。川が自然の気候や諸条件によって、たまたま必然的に丸く孤を描いたのと同じように、この建物もたまたまこの形になったような、そんな造型。不確定な余白を持ちつつこの形に何となく落ち着いたものだ。これからこの形が変わったとしても、何ら違和感はないだろう。これぞ『不確定の美学』の真髄なり。
この建築では、特に境界が不安定になるように注意が払われていた。

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体育館は周辺の建物の瓦屋根が見えるような開放的なものだった。隣の棟の曲線屋根も丁度良い見え方をしてくれる。

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体育館とホールを繋ぐ地価廊下は光を遮断し、気持ちを一旦ゼロにさせてくれるような役割がある。

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ガラスを鋭角に除くと、外部を拡張させるかのごとく、景色が映され広がる。

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近景では反射し、遠景では透過することで、その近景と遠景の境界を曖昧にする。外部と内部は溶解されて混ざり合う。

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ガラスはある角度を越えると通過せずに反射に切り替わる。そのためこのナスは半分消えている。

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その外部化された内部や、内部化された外部の隙間が通学路になっていて自転車が滑走したり、おじちゃんが車を突っ込みながら使いこなしていた。

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この日は地元住民による盆栽展がやっていた。お爺ちゃんお婆ちゃんたちは、みんな良い顔してました。一人は、しきりに建物の写真を撮っていた私に話しかけてきて、この建物の悪いとこ良いところを語ってくれました。まるで、世話が掛かる自分の子供のことを話すように。

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とにかく熱い日で、日陰に避難するスー。

まあかなり変な建築だけど、これでも十分使えることがわかったし、地元住民も楽しそう。
あのたまたまできたスペースを、自分達の思うままに使っていて楽しそうだった。町の人たちは、みんな誰もがお隣さんのようで、見ていて心地よくもあった。恐らく、この建築を使いこなせるこの町はいい町なんだろうと想像する。治安の悪い場所では、この建築は成立できないのではないだろうか。そういう意味では、理想の社会像を追求する建築なのかなと思う。
by tokup_nao | 2010-05-06 00:06 | 建築 | Trackback | Comments(4)
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Commented by sori at 2010-06-16 00:57 x
身体化と脳化の二つの流れは確実に支配的になってきている。
SANNA的感覚と茂木的感覚はとても似ていると思っていて「あたしにあっ たのこの感覚」という広義の意味でのカメラワークの妙技、つまりは世界 の拡張。内田樹、木田元、と私の敬愛する鷲田清一。
とくに鷲田の文章にはSANNA 的なものを感じざるをえない。その世界は少なからず"生きづらい 世代"には魅力に見える。
ちなみに鷲田はファッションに深く関係して、メルロポンティ信者の彼の 息子は"鷲田めるろ"21世紀美術館のキュレーターです。

定量的な時間と観念的な時間があるとして、シールの剥がれや雨垂れと いった前者の産物を後者にぶつけて相対化する事で知的リアリティを獲得 しようというコメントが往々にして存在する。
たきこうじのように観念で何冊も書けるわけでないパンピーにとって共有 の言語にするのは難しいだろうな。
Commented by soei at 2010-06-16 00:58 x
コメント字数オーバー

今回のJAの青木淳のページ、大宮体育館のスタディで出たボリュー ムの輪郭のアールを重ねると、ただの線が文字通り重なりを持って表れて くる。それは表現上のコミュニケーションツールで、僕らが"どう現せ ば"と悩むその悩みが記されたエッセイとしての表記だと思った。こないだの深さわの"はまってる感覚"これはmakeでは
なくchoiceである。その感覚で最近は建物を見ている。名作が馴染むには時間がかかるよ。


Commented by tokup_nao at 2010-06-16 13:37
「時間をデザインする」という鷲田さんのヨウジヤマモト論は参考になりそう。
伊東さんの東京遊牧少女を思い出す。あれも時間の意識は高かったように思う。
よい建築ほど、定量的な時間と観念的な時間がシンクロしていると思う。ミラー&マランタなどのスイスの建築はそういう点で引きつけられる。SANAAはまだ観念的なところに留めている。それはそれでいいと思う。SANAAには実際の時間経過にはまだまだ弱いだろうから。
多木さんの「生きられた家」も真壁さんや貝島さんがよく参照している。真壁さんは優しい言葉に、アトリエワンは生活としてのかたちを与えようとしているうだ。時間を考えると、その標的は人間自身の振る舞いのようなところに収束するかもしれない。アトリエワンの振る舞い学だ。塚本さんは今和次郎も参照する。

Commented by tokup_nao at 2010-06-16 13:38
坂牛卓はブログで『松岡正剛『知の編集術』講談社現代新書2000を読む。21世紀は「主題の時代ではなく方法の時代だ」』と綴る。
方法論とはchoiceの仕方だと思う。青木淳の体育館のあのスタディには痕跡を残すこと、その方法自体が他者を説得する目的であるように思う。そうでもしなければ、あの円が根拠は見当たらない。膨大な過程・段階を示すことは、不確定の美学をもったどの建築にも必修だろう。
はまる感覚には理由がないので、どんだけはまっているか示すことになる。
まだまだ時間は必要。


tokup.nao@gmail.com


by 徳田直之 (Naoyuki Tokuda)

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