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建築設計事務所の仕事の様子と雑談を綴っています。


by 徳田直之 (Naoyuki Tokuda)
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桝屋本店(上越市M社)

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桝屋本店(上越市M社)
住所:新潟県上越市三和区末野新田341
設計:平田晃久

春休みに新潟に行きました。車を運転しまくりました。訪れた順に紹介します。
まずは、平田さんのデビュー作。
模型の印象では軽快なリズムをもって空間が繋がっていくイメージであったが、実際に行ってみるとかなり力強かった。光の明暗がはっきりしていて、トップライトもかなり効いている。そして、何よりも物がとても多い。美術館ではないので、当初のように綺麗にはできないのはわかるけど、あまりに違くてびっくりした。現実の壁をまざまざと見せつけられた気がした。
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↑当初の雑誌に載っていた写真は綺麗だよね・・・。

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篠原一男は住宅論で、施主の使い方がどうであろうと、建築家はそこに関与していかないというようなことを言っていた。恐らくその真意は、生活の仕方は指導するものでなく、施主がその建築で勝手に獲得するものだということなのではないか。
もし、そうならば、この建築でここで生活している人々が獲得した生活に建築家の意思とは離れて観察してみると、その建築の本音が見えてくるのではないだろうか。

エントランスに入った瞬間にトントンと包丁を叩く音。暖炉を越えると、ワイワイと働く社員達。中庭が見える場所でお昼の支度が進んでいる。ブラブラとそこを歩きまわる訪問者三人。みんな繋がった大きいようで狭いような部屋を使いながらも、違うことをそれぞれしていて、ユルユルと全体が繋がっている。サンゴ礁に群がる魚のように。
当初の写真では予想もつかない生活のリズムがここにはありそうだ。そのベースを敷いたのが建築家なら、その仕掛け人は建築家であり、主人公は間違いなく生活者だ。

後輩が、「建築はいつまで建築家のものになりえるか?」のような質問をしていたけど、最初から最後まで建築が建築家のものであったことなんて一度もないじゃないだろうか。



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Commented by ryota-yano at 2010-04-16 00:14
yano
平田建見に行ったんだ。いいなー。
しかし大量の機械やね。
そういやベンヤミンが建築を映画になぞらえて、散漫な態度によって慣れていく芸術だっていってた。
ということは生活してる人がその建築に慣れてきて、「快適だな」って思った瞬間て、実は建築が絶大な権力を握ってしまった瞬間でもあるんじゃ。
時間を含めて建築を見てみると、建築家が思い描いてるほど建築って優しくないんじゃないかな。
Commented by tokup_nao at 2010-04-16 14:51
大量の機械でしょ。
これこそ「複製技術時代の芸術」なのさ。

ベンヤミンの言葉を借りるならば、ある建築に使用者が生活の手垢を付けていくことによって、その建築が生活者にとってだけの真の「アウラ」なるものを獲得していくのだろう。
その手垢を付けて行く段階の、継続的変化は、場面と時間が映りゆく映画的でもありながら、建築的である。
映画は進むにつれて次第に観客を取り込んでいき、それはときにその人を凶暴なほどに夢中にさせるという意味ではとても恐ろしい権力だ。
もし建築がその文脈に乗るとするならば、建築家はなんて危険で挑発的で無責任な人種なんだろう・・・。
Commented by ryota-yano at 2010-04-17 22:43
生活者がアウラを獲得するって、実は、建築の権力内でその権力に気づいてない生活者(建築家?)が夢見る単なる幻想でしかないんでない?
Commented by tokup_nao at 2010-04-18 00:23
つまり、それは、権力に気づかないから幻想を見ていられるってことだ。気づくことをさせない権力が、幻想を守っているということ。権力権力…いうとフーコーみたいになってくるな・・・。(現に、今の自由であるような社会が隠れた権力の良い例だとか言い出すと、余計に話はややこしくなるので、ここでは割愛するが)
ポイントは、建築家ではなく、生活者がアウラを獲得するってことだと思う。建築家がアウラを獲得すると、それは自作自演にしか過ぎないけど、元々他人の人が建築家が作った権力の中でアウラ(←ここで言う幻想?)という無二の存在を創り上げる過程があるならば、それは美しい(楽しい?)サイクルではないかと思うな。
Commented by ryota-yano at 2010-04-18 02:06
生活者は建築家の意図とは関係なく住むってことを、生活にアウラがあるって言ってんだよね?
だから「最初から最後まで建築が建築家のものであったことなんて一度もない」ってことだと思うんだけど、それでもやっぱり大抵のまともな人は身体は風呂場で洗うし、用はトイレで足すし、食事は台所でつくるじゃない。
細かい生活のシーンは限定できないにしても、大きく見たらやっぱり建築は建築家の意図通りに動いてるんだと思うんだけどな。
Commented by tokup_nao at 2010-04-18 23:11
でもさ、現にこんなに大量の機械を置くことを平田さんは意図してなかった訳だし。基本的な生活レベルでは、もちろん機能(計画)通りに使われる。でも、建築家の意図しきれなかったことが建築に現れた現象こそが、生活者が獲得したアウラなんだと思う。「建築家の意図とは関係なく住むこと」というよりも「建築家が意図しきれなかった場面」が性格だったね。
おもしろい建築ほど、その建築が建築家のものでないと言えると思う。建築家の手を離れて自己成長する(生活者がアウラをそこでかってに見出す)建築もおもしろいんじゃないかなーと思う。
もちろん、それだけではなく、建築家がアウラを獲得する建築もあると思う。建築家が創る自邸なんて全部そうだ。
自邸を創りたがらない建築家がたまにいるけど(ミースとか?)、それは前者なのかな。Pジョンソン(ゲイの理想郷)は後者かな。
Commented by ryota-yano at 2010-04-21 23:07
何て言うか、建築がたった後に起こる事は確かに予測不可能なんだけど、それを語るのは状況の再確認でしかないんじゃないか。
機能を限定しないコンセプトの設計はかなり出たけど、「生きられた家」を認めた上で、さらに建築家が建築にコミットできるコンセプトを探すことが重要だと思う。
地域社会圏はそういった意識をすごく感じただよね。読んだ?
てか飲みながら話したいね。
Commented by tokup_nao at 2010-04-23 01:23
もち読んだよ。山本理顕の一貫性はさすが建築家のボスだと思った。
そりゃあ、ユートピアを構想するのは建築家の必修だと思っているよ。
ドラゴンリリーの家では、実際に周辺住民とどんな関わり方や、住み手の暮らし方が起こっていくのか非常に興味深いね。建築家が期待しているだろう住み方はあるのだろうけど、さらにそれを越えて、実際に起こるその生活には建築家さえ想像しきれない予測不可能なスタイルがある気がしてならない。
建築を見学しに行って気をつけなきゃいけないのは、建築家がそこで社会に提示しようとしているコンセプトを見落とさないで補完しつつ、そこで起きたことを建築家の意図の再認識の域を越え、コンセプトからの発見といえる出来事を見出せるかどうかだと思う。
建築を見に行ったからには、そこまで見出したいと思っただけさ。
地域社会圏を提唱する山本理顕には、とりあえず、チューリッヒに期待することにしよう。
http://akichiatlas.com/CircleAtZurichAirport/

まあ、おれはいつでも飲みに行けるけどーー。
by tokup_nao | 2010-04-13 21:58 | 建築 | Trackback | Comments(8)