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豊島美術館

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豊島美術館
設計:西沢立衛

日本の内部空間の始まりってどこからなんだろうと考えてみる。寝殿造りや書院造りから始まる貴族の建物は立派な内部空間だろうか。貴族の見出した建築の頂点に桂離宮や慈光院があるとすれば、それらは内部と外部の区別は極めて曖昧で、借景もあり外部空間への意識がとても高い。西欧の頑丈な内部空間とは遠くかけ離れた存在だ。

今回、研究室のゼミ旅行で宮島の千畳閣という建物を訪れた。千畳閣は天正15年(1587年)に豊臣秀吉が戦歿将兵の慰霊のために大経堂として建立した。秀吉の死により工事が途中で中止され、板壁も天井の板もない未完成の状態のままとなっている。がしかし、訪れてみると、その未完成がとても良かった。天井を見上げてみると、浄土寺浄土堂の内部の見上げにも勝る荒々しい深い闇と粗雑な加工が表出しているではないか。本来見せるはずのかなった場所のためか、木の生身をどかどかと乗せた力強いものになっている。装飾することを忘れた本来の構造の為だけの天井裏。重源の和様建築が女性なら、こっちは男性かもしれない。(しかも肉食系の) そしてさらに、板壁もない。ここは未完成の美の極地なのか。内部空間をつくることを諦めた空間は内外の境界が極めて美しい。ただそこにあるのは、人が胡坐をかくのに丁度いい段差だけだ。

垂直方向を見上げれば無限の闇、水平方向を見渡せば、宮島の山々と大野瀬戸の海の景色が広がる。確かな世界と不確かな世界の二重演奏、重複拡大。秀吉の死によって天井と壁を失ったどえら美しい空間が出来上がった。何と言う皮肉。侍たるもの、やはり死には美が付きまとう性分なのか。未完の空間恐るべし。

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天井がないという点で類似する浄土寺浄土堂はとても内部的であった。あの篠原一男も感銘を受けていた。
「私たちの歴史のなかに不在であると思っていた、力みなぎった巨大な空間に突然私は出会ったのである。素朴さにおいてはロマネスクを、構造の大胆さにおいてゴシックをあてはめたいような興味ある空間にであった。」(住宅建築p62)
その一方、書院造はとても外部的だ。その間に偶然に舞い降りてしまったのが、内部と外部を同時に持った千畳閣だと言える。そして時は、2010年。こんな未来にもその間に割り込まんばかりの勢いで、ある建物ができてしまった。それが豊島美術館というわけだ。これももちろん、全部外部でした。
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      (excite ism 写真:森川昇
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      (excite ism 写真:森川昇



穴を見つめれば木々が風で揺れ、ふいに木の葉が建物に入って来る。吸音材が一切ない建物内部では、風の音、鳥の声、そこに訪れた人々の小さな足音さえも増幅され反響されていく。小さな世界が拡大されいく場所。と思えば、白い壁はどこまでも奥行きを消滅させると同時に、無限に拡がる。確かな世界と不確かな世界の二重演奏、重複拡大。そのときは目の前の状況で気持ちがいっぱいだったため気づかなかったが、この感覚はこの旅で二度目の体験であった。あっ、そうだ忘れていた。SANAAを始めとする彼らの空間はいつも未完のままに提示することを鉄則としていたではないか。前に鬼石多目的ホールのことをかいたときに『不確定の美学』といったが、もっと端的に言えば、その建築が持っているものこそ『未完の空間』だったのだ。未完の空間、やっぱ恐るべし。




でこの話には続きがあって、『未完の空間』を誰よりも先に近代建築に持ってきた人がいたのです。もしかして、もうばればれでしょうか。そう、その人こそ、篠原一男なのだ。

彼が残した最高傑作。

「未完の家」(1970)

これを見ずして『未完の空間』を語ることは許されない。 (つづく)

追伸
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by tokup_nao | 2010-11-17 19:43 | 建築 | Comments(0)

どうじょう

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場所OFF OFFシアター
出演本井博之, 小松美睦瑠, 政岡泰志(動物電気) 他
脚本小松美睦瑠
演出小松美睦瑠
コマツ企画

妹に何かおもしろい演劇教えてよーとメールしたら、コマツ企画を勧められたので行ってきた。
お金で男女関係をつくる商売をしている会社の話しだった。最終日ということもあって、満席でだった。笑いが絶えない演劇であった。
誰もが自由にやっているようで、でも実は誰もが屈折した部分を持っていたり。
明るい日常の中に、ふと吹き溜まりができてしまって、何かの弾みで一杯になったバケツを一気に逆さにしたように、いや、もう感情の底が抜け落ちるとでも言うのか。
青年がつぶやきが、次第に叫びへと変わってくる。

「僕は変わりたい・・。変わりたーーい!!あああぁぁぁぁ。カワリターーーイ!!!!!」

あの台詞は、あの舞台に出てきたみんなの台詞のように感じさせた。あのたった一つの言葉で、バラバラだった人達が、突然一つの星座のように形として現れた。


どうじょう

同情?


あの青年が変わりたかったこと。
それは、人に同情できる人になることだったのかな。
あの女性に対して

「僕には、重過ぎます・・・。重いんです。」

と言ってしまう自分。彼は他人に同情できない自分を責めていた。
またある男性はこう言う。

「僕に同情してください。」


情を受ける人もかける人も、みんな自分と戦っていた。

あの何とも言えない感情の動き、その気持ちって演劇だからこそ出てくるのかな。
感情は生き物だから、あの場でつくる雰囲気や空気感、演劇だからこそ、出てくるものがあるのかな。
演技ってのは、人間がある時空間を越えた人間を表現する為に最も古くから用いられている技術だろう。その歴史は想像のつかないくらい深そうだ。感情を感情で表現する。もっとも原始的でストレートでかっこいい。生の演劇は映画やドラマとは似ているようで全く違う回路を通しているようだ。それは同じ話しでも、小説の読後感と映画化されたものが全く違うのと同じくらい違う。小説ももっと踏み込めば、読む時期タイミング勧められた人によっても違う読まれ方をする。それぐらい生きているものだと思う。演技も、あらゆる人とその人が起こす小さな事が連鎖して物語になっている以上、何が起こるかわからない未確認生物Xだ。
建築だって、建てるまでは誰もわからないし、使う人によって180°変わってしまう物体Xだろう。でも少しでもそのXのベクトルを使用者(体験者)自信によって正確な方角へ向けさせたいわけなんだけどね。その思いは演技も小説も建築も同じなのかもしれない。
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by tokup_nao | 2010-11-01 01:10 | Comments(0)


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by 徳田直之 (Naoyuki Tokuda)

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