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とある世界の展示 2

藤本壮介展 山のような建築 雲のような建築 森のような建築 建築と東京の未来を考える2010
ワタリウム美術館
2010年8月14 日(土)~11月28日(日)

そして、ほぼ同時期にやっているのがワタリウム美術館でやっている藤本壮介展だ。石上展と藤本展をよく比べるてみると、日本の建築がある場所に行きたがっているように見えてくる。プリミティブな場所へと。

それらの建築の大前提は、無意味の価値だと思う。
一見無意味と思えるとこに、機能的なものでは到底得ることができない豊かさを持っているような。でも、これは何にでも言えるかもしれない。本当に豊かなものとは無意味なものを沢山内包している。その意味・無意味が曖昧に溶け合っている環境こそが、今問われ提案され続けられようとしている空間だ。

そのどうも説明するには気難しくなりがちなものを提案する手段として、『プリミティブ』という言葉はこの混沌とした現代社会にしっかりと腰を据えてくれる便利な言葉なのだろう。

雲、山、風、海。
それらと融解していく建築がSANAAや石上純也、藤本壮介を筆頭に目立ってきた。

自然と同じように不便でいいし、疲れてみたい。そんな建築の可能性を探している。

がしかし、西沢立衛が講演会で話した、「周りと同化しながら、普遍性をそこに与えたい。その矛盾がある。」ということを忘れてはならない。

GA JAPAN106のROLEXラーニングセンターでの、妹島和世、西沢立衛、隈 研吾、二川由夫の対談で、隈さんの鋭い指摘がそれをさらに際立たせていた。
床レベルを上げ地面と同化させずにエレベーションが地面から離れていることに対して、隈さんはそれがSANAAの本音と言っていた。それこそが、地面と緩やかに繋がっている動線にも関わらず、切り離された空間の矛盾であり、そこに普遍性を与えたいという本音の発露である。隈さんはそれに対し「俺だったらとことん周りと同化させて、建築を消してしまう。」という。

つまり、『プリミティブ』は現代に対してとても効果的に見える一方、建築家自身を消してしまう恐いテーマなのだと思う。矛盾を抱えないでやってしまうと、自然に吸収されてしまうのだ。

ある建築が数年発って、

あれ?これは、自然だったっけ?建築だったっけ? あれ、忘れちゃったや・・・。

何てことにならないようにしたい。
建築であるべきもの、それはいつも自然と人間が織り成すドラマであってほしいのだ。

おまけ
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by tokup_nao | 2010-08-30 13:25 | 建築 | Comments(0)

とある世界の展示

「石上純也展 建築はどこまで小さく、あるいは、どこまで大きくひろがっていくのだろうか?」
資生堂ギャラリー
2010年8月24日(火)から10月17日(日)まで

韓国から帰ってきたぞ。食べ物が最高に旨かった。食いしん坊にとっては天国のような国。24時間常にお腹いっぱいだった気がする・・・。一週間で5kgぐらい太ったかも・・・。もちろん建築も良かった。それは後ほど。
成田空港に帰ってくるなりさっそく後輩からメールが来ていたので、その次の日すぐに豊洲に行くついでに資生堂ギャラリー行ってきた。



最初のパネルに石上の態度を示すのに一番的確な言葉があった。

「私たちがまだ知らない世界を切り開くひとつの手段として建築があるのではないか」

とても強く印象に残る。というか、本人の建築に対する態度の言葉がこれぐらいしか見受けられなかったのだ。そういう、可能性の開く建築を創っていく態度は、今回の展示でみられた狂人じみたスケール感によく出ている。それは鬼石多目的ホールで感じた妹島のスケール感にも似たような感覚だ。でも両方とも、西沢立衛が講演会で言っていた「スティーヴィーワンダー状態」を創りだす個人の感性を公共にしてしまうパワーがあるのだろう。
展示を見ていくと、世界を一周する橋の案は過去に誰かがコンペで出していたなと思ったし、雲を発生させ部屋に雨を降らす案も後輩がコンペでやっていたな。しかし、こうして学生以上に柔軟なスケール感を連続的に考え展示していくと、とある世界観にまで広がっていく石上の粘り強さが感じられた。
その、現代の技術力では100%現実不可能な提案の山があって、KAIT工房があるんだと思うと、何かとても狂人に見えた石上もしっくり伝わってくるのだ。そういう意味では、捉えにくい石上の影を捕まえた気分にさせてくれるいい展示だった。


平日にも関わらず、前のチェコ写真(休日)のときとは違い沢山の人が来ていて驚いた。
建築外の注目も多いようだ。

東京現代美術館の展示でも話題になったこともあり、今回も建築の垣根を越える展示であったことは間違いなさそうだ。

How small ?
How vast ?
How architecture grows ?
建築はどこまで小さく、あるいは、どこまで大きくひろがっていくのだろうか?


まずは足を運んで、建築がどこまでひろがっていけるのか?はたまた、どこまでひろがってしまっていいものか?この目でしかと見定めたい。
もし、沢山の僕ら若い世代がこのスケール感を見て強く共感したとしたら、その先の建築はどんな風になってしまうのだろうと妄想が膨らませたり。その一方、この世界が気持ち良すぎるのでそれを客観的に見ようとしてみる。

ともあれその日は、韓国の建築を沢山みた後の日本でのこの展示は一番近い国でありながら双方のギャップをすごく感じた日だった。


あーーーーー、サムギョプサルまた食べたい・・・。
お土産に研究室にスパークリングマッコリ(スーのお勧め)や韓国茶(パック)を置いておくので飲んじゃって下さい。
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by tokup_nao | 2010-08-27 18:13 | Comments(0)

生きられた図書館

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武蔵野美術大学 美術館・図書館 (2010年、小平市)
設計:藤本壮介

ギンギラ太陽が照りつき、アスファルト面がユラユラと浮遊する。今にも倒れてしまいそうになりながらキャンパスを進んでいくと、木々の間から木漏れ日を反射する建物が現れる。ムサビの図書館だ。いくつもの門が繋がっているような、開口部がそのまま外部に飛び出して来たような、どちらともとれるその大きさが効果的だ。ガラス面が覆うことによって機能をはぎ取られたファサードは装飾として自立する。機能が封印された装飾は、ガラスを割ってそこに機能を持たせる誘惑を喚起させるようで、何だか怪しげだ。

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内部は明るい。図書館というよりも教会のような明るさだ。天井を覆うポリカーボネートからは方向を持たない光が降り注ぐ。もちろん、上段の棚は使われていない。これがファサードと同じく、使うことができない棚が空間の表情を創りだすようでもあり、これから何が起こるか分からない余白を事前に持ち合わせたものとして、時間と空間の可能性を提示した。今までの図書館は本だなが埋まっていることが当たり前だったが、ここではそれをあえて空けることによって、時間をデザインした。その点では、僕が鬼石多目的ホールで感じたことに共鳴する。
前略)そんな時代を象徴するように、SANAAの空間も時間とおなじように、刻々と変わっていくような変数として扱おうとしている。不確かなものへの永続性を補完することで、そこでの空間が時間のような移ろい続ける響きを放つことを期待している。

また、10+1のWebsiteまた表象文化論の田中純はこの余白に対して、藤本の言葉を引用しながら的確な位置付けをする。
藤本は、この書架の壁は将来的には書物で埋められるかもしれないが、アート作品などの創作活動によって埋められるかもしれず、あるいは「その空白によって書物を超えてゆく情報というものの広がりを暗示するかもしれない」と言う。つまり、ここはすでに書物のみによって埋められるべき空間ではないのだ。空の書架は何かが起こる「かもしれない」、予感と可能性の「暗示」としてこそ、この図書館の重要な構成要素になっていると考えるべきだろう(この象徴的な空間を生み出すために、書庫は地下や1階のやや隠れた位置に配置されている)。図書館という「渦」は未来に向けて、時間的にも開かれている。

もしこの空の本棚には意味がないと思っていた自分がいたとすれば、それは今まで機能主義・合理主義の湯舟に浸かりすぎてきたせいかもしれない。その考えは、これからのポスト資本主義時代の幕開けの可能性に対する侮辱に他ならない。いつの時代でも、可能性に新しい機能と同等の価値が生まれることを期待し続けていけたらいいなと思う。現に歴史を切り開く建築はいつもその期待を裏切らない。西沢さんの講演会に行っても、本人でさえ半信半疑になりながら創っているのもそれを強く感じさせた。可能性に確証はないのだ。

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書庫は一階の奥に配置される。それぞれの分野の本は二階奥に配置され、雑誌類はエントランス付近。インターネットを主流とするパソコンは二階のペデストリアンデッキに配置された。流動性のある媒体であればあるほど、外部に近い場所、自然採光が降り注ぐエリアに置かれている。日焼けしそうなエリアには雑誌類があるが、サイクルが早いので頷ける。

様々な情報が蠢く世界に溺れないよう、ヒエラルキーを持って的確に配置され、その世界との距離の置き方を身体的に享受できるかのような厳格な構成が、本だなのルーズな余白の存在を許してくれているように思えた。多木浩二は『生きられた家』で、この建築が取り巻く世界を海に例えて記述する。
人間はその時間と空間のさまざまな多様性をうみだし、そこに神話や性的関係、夢ばかりでなく、社会的制度や政治学を織り込み、さらにはそれを商品の法則に従わせてやることもやってのけるのである。こうした記号論的な虚構が、私たちが現実として生きてきたものであった。つまり経験の次元をとりだすことは、現象学を象徴的な人類学への開口とみなすことにほかならなかった。そしてこの象徴的世界こそ、「生きられた家」という、ほんの僅かな記号でできた船を浮かべている海のようなものである。「生きられた家」という問題意識がそこまで視線をひろげてきたなら、こんどはその「生きられた家」の問題意識そのものが、この象徴の海に向かってひらかねばならなくなる。

つまり、ここで多木さんは個人の経験が世界の象徴的な事柄と密接な関わりを持つことによって「生きられた家」が現れるといいたいのだと思う。この図書館で藤本は、個人の経験を試せる余白を持たせつつ(これは森山邸にも言えることだがここでは割愛)、厳密な構成が混乱の世界の風上を察知させ、図書館という船が沈没させまいとこらえているようだ。これこそ生きられた図書館と言えるのだ。

また何度も余白と書いてきたが、それはまだ機能が与えられていない状況なので、「無機能」と記述することもできる。その無機能という言葉の知のアドレスを遡っていくと、1970年代の住宅界の一世を風靡した一人の人物にぶち当たる。その人こそ、光と影の錬金術師、篠原一男である。そういうことなのだ! 皮肉的にも、喧嘩別れした多木浩二の「生きられた家」と篠原一男の「無機能の空間」を合わせて解釈しようと試みると、現代建築の輪郭線がフツフツと現れてくるのだ。何てこった。

そうすると、読書会で真壁さんが言う「現代の建築家は『生きられた家』で言おうとしてたことをやろうとしているように思えてならないよね。」と言っていたことや、妹島が篠原スクールを頻繁に出入りしていたことも頷けてきてしまう。生きられた家は40年余りの時を経て息を吹き返そうとしているのだ。もう誰にも止められない。

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by tokup_nao | 2010-08-09 11:27 | 建築 | Comments(2)

チェンジ!エコロジズム・センス!!

ネイチャー・センス展/森美術館
2010年7月24日~11月07日

たとえマルクス主義が死んでも、裸の王様は、新しい服をまとって、
われわれに取り憑きつづける。          ギ・ソルマン




ネイチャー・センスという柔らかい言葉の題目。日本人による日本の自然が表現された。
nature sense。直訳すると自然感覚。
私たちがいう「自然(しぜん)」は19世紀末に輸入されたNatureの訳語として採用されましたが、日本にはもともと自然(じねん)という考え方があって、「自ずから然(しか)らしむ」、「あるがままの状態」を意味します。これは「無為自然」に起源をもつ親鸞や道元などの仏教的な思想から来ています。Natureの訳語としての「自然」も、日本では人間と対抗する野生や原生林といった自然ではなく、人間もその一部である森羅万象、天地万物すべてを包含するより広い対象を指しているといえます。
とキューレーターの片岡真実は森美のブログで話す。つまり自然感覚の発見は、そのまま日本のナショナリティの発見に重なっていく。展示を観ていくと、不思議と日本の美意識に訴えかける感覚がするのもそのはずだ。
展覧会を見ながら、私なりの回答のカギが浮かび上がってきた。それは「見守る」あるいは「待つ」という言葉だった。(中略)自然現象が一つの形をとり、それが元に戻るまでの時間の流れ、循環に心身をまかせるということ。それが太古から森で暮らしてきた日本人の、自然との関わり方であるような気がする。
ライターのreikoimamuraさんが自身のブログで感じられたこともそれをよく表している。





吉岡徳仁。
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やはりプロダクトデザインの畑を強く感じさせる作品になっている。職人気質というか、内的こだわりを突き詰めてある共有感覚の次元に達するものだ。



篠田太郎。
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都市のカオスやそこに生活する人間・文化を含めて自然を見渡す視座を与える。流れ出る赤い液体は性を連想させる。自然と動物の同化。とめどもなく流れ続ける生の総体が見えてくる。



栗林隆。
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地球の一部が山で、山の一部が林で、林の一部が実際に訪れた人たちで・・・。実際に自然の縮図を展示してみせた。神業だ。



最後を締めくくるのは、カメラマンの志津野雷とミュージシャンNAOITOとWAWAWAで活躍のチュンが、栗林隆のYATAIとのコラボレションしたYATAI TRIPだぁぁぁぁ!!!!!
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KOREA YATAI TRIP 01-16 まであるので全部見てほしい。そして僕たちも何かやらなきゃ!!と考えるきっかけになればいい。

たとえマルクス主義が死んでも、裸の王様は、新しい服をまとって、
われわれに取り憑きつづける。          ギ・ソルマン

ジジェクはソルマンの言葉を借りて、現代を批評する。裸の王様とは、人間の利己主義を、新しい服とは今のエコロジズム・歪んだ自然の捉え方を指す。自然がナショナリティと重なると書いたが、この展示の最後は、韓国と北朝鮮の国境の旅で締めくくられた。これは偶然ではない。ネイチャーセンスが行きつく先は、違う国同士の摩擦に行き着く。逆に言えば、他者との相互関係の中で、よりネイチャーセンスが浮き彫りになっていく。自国への問いは隣国への問いである。答えではなく、問い続けていかなければならない問い。

資本主義ははじめて意味を解体した社会・経済制度である。

食い縛った歯から押し出すように語られたであろうジジェクの言葉に沿って、僕らはもっとあらゆる意味を考え抜かなければならない。その初めに、この展示でネイチャーの意味を思考することは、現代の状況を打破する大きな活力の源泉となるに違いない。
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by tokup_nao | 2010-08-05 00:39 | 美術 | Comments(6)

沈黙を破る、生きられた家。

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建築界の怪人・真壁智治さんを招いた堀越研の読書会。第一クールが終わった。


M1を中心に一年を通しての堀越研の研究テーマである「日本的なるもの」の関連書籍を読みまくる。


一ヶ月で決められた本を一冊~三冊を読み、それをレジュメでまとめ読書会を行う。
本格的にテーマを決めて一年を通して読書会(勉強会)を行おうというものが初めてだったので、正直みんなどうやればよくわからず戸惑っていた。というのも、そもそも一番目の本が一番難しいという設定になっているのだから・・・。

一冊目は泣く子もちびる。

多木浩二著『生きられた家―経験と象徴 (岩波現代文庫―学術)

一言でいえば、強力な引力を持った惑星のような本。重力に負けて押しつぶされるか、エネルギーを利用して強靭な飛躍を得られるかは扱い方次第。

なので、僕らは細かいパラグラフ(6~8ページ)の間でそれぞれに多木さんが何を言おうとしているのか厳密に考察し図化し、気になった言葉を一つ一つ掬い上げながら網羅していった。

それでも
それでも
押しつぶされた・・・

真壁さんは言う。

「これはものすごく重層性を持っている。多木さんはいつも厳密に記述するということを意識している。」

学生の頃、多木さんの元へ通った青年は、今でも多木さんの本から多くのことを学ぼうとしている。その姿勢なんだ。


でも、難しいと言われる多木さんの本は、その厳密な定義の分、わかった時が恐ろしいぐらい的確で微動だにしないイメージが現れてくる。
例えば、一つのAという事象を説明しようとするときに、様々な角度からメタファーを通じて語ったりする場面で、そのメタファーが持つイメージを共有することによって、そのAという事象を潜在的に伝わってくる。


また、この本は今読んでこそとても意味がある。
この本の原型は1976年の単行本であった。そのとき、ずっと篠原一男の住宅の写真に収め「住宅は芸術である」をプッシュアップしていた存在が、その作家性あっての建築家の作品を否定するような本「生きられた家」を出してしまったのだ。喧嘩別れするのも納得できる。(この本の時代背景は最後に出てくる大室幹雄さんの解説を読むといい。)
というのも、当時の建築界の潮流とは真逆の本を出していた。しかし、当時東京造形大学で教壇に立っていた多木さんの講義を熱心に聴講していた一人の女学生がいた。それが妹島和世だ。また、篠原一男の系譜は坂本一成、アトリエワンということになるが。どちらも篠原一男とは真逆の日常や生活が前面に出ている。長谷川豪もしかり。篠原一男は反面教師だったのか・・・。つまり、敵の敵は味方。

そうことなのだ。76年から四半世紀以上経った今、ゼロ年代の建築がやっと今、多木浩二の密林に足を踏み入れた。
建築からは最も遠い地平性を歩いていたように見えた多木さんが、ふと気づくと目の前をてくてくと歩いている。
その足どりは今も変わらない。

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by tokup_nao | 2010-08-02 00:27 | 建築 | Comments(0)


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