風景の更新
2016年 04月 09日
幼馴染の友人に頼まれて、
畑にある小さな小屋の解体を行いました。
よく、街を歩いていると、
それまでそこにあったはずの建物が忽然と姿を消していることがある。
でも、どうしても、元々そこにあった建物が思い出せない。
いつもそこを通って目にしているはずなのに。
実際に畑にあった小さな小屋を解体した。
現調で予め訪れた時、小屋の中には畑の持ち主の小物たちが散りばめられていて、それこそ、生きられた家と言えそうな記憶の地層の断面を見せられているかのような気持ちにさせた。
解体の日には、それらの小物は片付けられていて、いらないものは外に出してあった。額縁に入れられた、サングラスをして勢い良く滑っているスキーの写真と共に。
そして、今回のこの小屋も、なくなってしまった後には、もうその小屋がない景色が直ぐに違和感のない風景となってしまった。
建物があった風景を思い出せなくなるのは、建物がない風景を経験してしまったからなのかなと思う。
風景が上書き保存されてしまったのだ。
あの風景が思い出せないではなく、あの風景が更新されてしまったのだ。
建てることも壊すことも、この意味では、あまり変わらない。
ある若い女性の建築家が言っていた。
「所詮、大きなゴミを私は作っているの。」
聞いたときは、いつも綺麗な建物を作っているこの方がと思って、何を言っているのか意味がよくわからなかったけど、
今となっては、風景を変える(壊す)責任を受け止めたようなものをひしひしと感じる。
畑にある小さな小屋の解体を行いました。
よく、街を歩いていると、
それまでそこにあったはずの建物が忽然と姿を消していることがある。
でも、どうしても、元々そこにあった建物が思い出せない。
いつもそこを通って目にしているはずなのに。
実際に畑にあった小さな小屋を解体した。
現調で予め訪れた時、小屋の中には畑の持ち主の小物たちが散りばめられていて、それこそ、生きられた家と言えそうな記憶の地層の断面を見せられているかのような気持ちにさせた。
解体の日には、それらの小物は片付けられていて、いらないものは外に出してあった。額縁に入れられた、サングラスをして勢い良く滑っているスキーの写真と共に。
そして、今回のこの小屋も、なくなってしまった後には、もうその小屋がない景色が直ぐに違和感のない風景となってしまった。
建物があった風景を思い出せなくなるのは、建物がない風景を経験してしまったからなのかなと思う。
風景が上書き保存されてしまったのだ。
あの風景が思い出せないではなく、あの風景が更新されてしまったのだ。
建てることも壊すことも、この意味では、あまり変わらない。
ある若い女性の建築家が言っていた。
「所詮、大きなゴミを私は作っているの。」
聞いたときは、いつも綺麗な建物を作っているこの方がと思って、何を言っているのか意味がよくわからなかったけど、
今となっては、風景を変える(壊す)責任を受け止めたようなものをひしひしと感じる。
by tokup_nao
| 2016-04-09 21:00
| 建築
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