生きられた図書館

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武蔵野美術大学 美術館・図書館 (2010年、小平市)
設計:藤本壮介

ギンギラ太陽が照りつき、アスファルト面がユラユラと浮遊する。今にも倒れてしまいそうになりながらキャンパスを進んでいくと、木々の間から木漏れ日を反射する建物が現れる。ムサビの図書館だ。いくつもの門が繋がっているような、開口部がそのまま外部に飛び出して来たような、どちらともとれるその大きさが効果的だ。ガラス面が覆うことによって機能をはぎ取られたファサードは装飾として自立する。機能が封印された装飾は、ガラスを割ってそこに機能を持たせる誘惑を喚起させるようで、何だか怪しげだ。

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内部は明るい。図書館というよりも教会のような明るさだ。天井を覆うポリカーボネートからは方向を持たない光が降り注ぐ。もちろん、上段の棚は使われていない。これがファサードと同じく、使うことができない棚が空間の表情を創りだすようでもあり、これから何が起こるか分からない余白を事前に持ち合わせたものとして、時間と空間の可能性を提示した。今までの図書館は本だなが埋まっていることが当たり前だったが、ここではそれをあえて空けることによって、時間をデザインした。その点では、僕が鬼石多目的ホールで感じたことに共鳴する。
前略)そんな時代を象徴するように、SANAAの空間も時間とおなじように、刻々と変わっていくような変数として扱おうとしている。不確かなものへの永続性を補完することで、そこでの空間が時間のような移ろい続ける響きを放つことを期待している。

また、10+1のWebsiteまた表象文化論の田中純はこの余白に対して、藤本の言葉を引用しながら的確な位置付けをする。
藤本は、この書架の壁は将来的には書物で埋められるかもしれないが、アート作品などの創作活動によって埋められるかもしれず、あるいは「その空白によって書物を超えてゆく情報というものの広がりを暗示するかもしれない」と言う。つまり、ここはすでに書物のみによって埋められるべき空間ではないのだ。空の書架は何かが起こる「かもしれない」、予感と可能性の「暗示」としてこそ、この図書館の重要な構成要素になっていると考えるべきだろう(この象徴的な空間を生み出すために、書庫は地下や1階のやや隠れた位置に配置されている)。図書館という「渦」は未来に向けて、時間的にも開かれている。

もしこの空の本棚には意味がないと思っていた自分がいたとすれば、それは今まで機能主義・合理主義の湯舟に浸かりすぎてきたせいかもしれない。その考えは、これからのポスト資本主義時代の幕開けの可能性に対する侮辱に他ならない。いつの時代でも、可能性に新しい機能と同等の価値が生まれることを期待し続けていけたらいいなと思う。現に歴史を切り開く建築はいつもその期待を裏切らない。西沢さんの講演会に行っても、本人でさえ半信半疑になりながら創っているのもそれを強く感じさせた。可能性に確証はないのだ。

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書庫は一階の奥に配置される。それぞれの分野の本は二階奥に配置され、雑誌類はエントランス付近。インターネットを主流とするパソコンは二階のペデストリアンデッキに配置された。流動性のある媒体であればあるほど、外部に近い場所、自然採光が降り注ぐエリアに置かれている。日焼けしそうなエリアには雑誌類があるが、サイクルが早いので頷ける。

様々な情報が蠢く世界に溺れないよう、ヒエラルキーを持って的確に配置され、その世界との距離の置き方を身体的に享受できるかのような厳格な構成が、本だなのルーズな余白の存在を許してくれているように思えた。多木浩二は『生きられた家』で、この建築が取り巻く世界を海に例えて記述する。
人間はその時間と空間のさまざまな多様性をうみだし、そこに神話や性的関係、夢ばかりでなく、社会的制度や政治学を織り込み、さらにはそれを商品の法則に従わせてやることもやってのけるのである。こうした記号論的な虚構が、私たちが現実として生きてきたものであった。つまり経験の次元をとりだすことは、現象学を象徴的な人類学への開口とみなすことにほかならなかった。そしてこの象徴的世界こそ、「生きられた家」という、ほんの僅かな記号でできた船を浮かべている海のようなものである。「生きられた家」という問題意識がそこまで視線をひろげてきたなら、こんどはその「生きられた家」の問題意識そのものが、この象徴の海に向かってひらかねばならなくなる。

つまり、ここで多木さんは個人の経験が世界の象徴的な事柄と密接な関わりを持つことによって「生きられた家」が現れるといいたいのだと思う。この図書館で藤本は、個人の経験を試せる余白を持たせつつ(これは森山邸にも言えることだがここでは割愛)、厳密な構成が混乱の世界の風上を察知させ、図書館という船が沈没させまいとこらえているようだ。これこそ生きられた図書館と言えるのだ。

また何度も余白と書いてきたが、それはまだ機能が与えられていない状況なので、「無機能」と記述することもできる。その無機能という言葉の知のアドレスを遡っていくと、1970年代の住宅界の一世を風靡した一人の人物にぶち当たる。その人こそ、光と影の錬金術師、篠原一男である。そういうことなのだ! 皮肉的にも、喧嘩別れした多木浩二の「生きられた家」と篠原一男の「無機能の空間」を合わせて解釈しようと試みると、現代建築の輪郭線がフツフツと現れてくるのだ。何てこった。

そうすると、読書会で真壁さんが言う「現代の建築家は『生きられた家』で言おうとしてたことをやろうとしているように思えてならないよね。」と言っていたことや、妹島が篠原スクールを頻繁に出入りしていたことも頷けてきてしまう。生きられた家は40年余りの時を経て息を吹き返そうとしているのだ。もう誰にも止められない。




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もちろん、この図書館の対抗軸も存在する。それが多摩美術大学図書館である。自然に囲まれた敷地に対して住宅街に囲まれた敷地。使用者によって変化し続ける空間に対して、歴史を横断してしまった普遍性を持ったアーチ空間。建築と一体になった家具に対して、自立した家具。縄文的な建築と弥生的な建築とも言えそうな建築の味付け。

この面白いくらいに対象的な二つの建築を比較してみると、現代建築が向き合う有効な思考の手掛かりが出てきそうだ。まずは考えてみよう。あなたはどちらが好きだろうか。
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by tokup_nao | 2010-08-09 11:27 | 建築 | Comments(2)
Commented by chebi-chi at 2010-08-13 09:31
これもう公開してるんだ?内観写真撮影OKなの?
新建築で見て、本棚で建築が構成されているのに
自立した本棚も存在しているのが気になったなー。
Commented by tokup_nao at 2010-08-13 10:19
OKっすよ。自立した本棚だけど、高さが背丈まぐらいまであるから壁の意識が強い。多摩美はもっと低い。だから、ムサビの方が本の森に入ってく印象が強かったよ。結局一日でまとめて二つ見に行ったよー。


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by 徳田直之 (Naoyuki Tokuda)

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